ベンチ【難波麻人】




公園に行くと、いつもワンカップを持ったおっさんがベンチに座っていた。

白髪で無精髭を蓄え、サッカーコート半面程の公園を見渡せるベンチに深く腰掛けた男は、ワンカップ片手にこちらを眺め、いつも何かブツブツと呟いているのだ。
しかし小学生の僕らにとって、それは公園のブランコや滑り台と同じように当たり前の景色だった。

友達と二人でサッカーの練習をしていたら、一度その男がベンチから声をかけてきた事があった。

「お前はいいキックしとる、けどそっちのはあかんな。」

僕がボールを蹴ると賞賛し、何故か友達が蹴ると罵倒するのだ。

「またや、お前は上手やけど、そっちのは全然あかんの。」

じきに大人しくなるだろうと無視をしていたが、時間が経つにつれ男はより饒舌になっていった。

「今のは綺麗なフォームや。何回言うたらわかんねん!お前はもっとボールの中心を捉えて蹴らんかい。」

「お前よしてないねん!」 

ずっと黙っていた友達が、突然男を睨みつけ叫んだ。
子供から大人に放たれた「よしてないねん」の威力は凄まじく、男はベンチにゆっくりと横になると、半分程残ったワンカップを地面に置き、静かに瞼を落とした。
次の日も公園に練習へ行くと、やはり男はワンカップ片手にベンチに座っていたが、その日はまるでJリーグのスカウトのような鋭い目つきで、黙って練習を眺めているだけだった。



高校生にもなると、公園へ行く頻度も少なくなり、たまに行けばやはりその男はベンチに座っているが、只公園を横切るだけの時、不思議と男はベンチにいない事に気づいた。

「ああいう人、どの公園にもいるんだね。」

公園のグラウンドを挟み、男の向かいのベンチに座りながら彼女は笑った。彼女は高校のクラスメートで、少し寂しさを含んだような笑顔に僕は惹かれていた。なるべくデートっぽく思われないよう、誘い出すのはいつも公園のベンチで、僕は隣で彼女の髪の匂いだけを嗅いでいたかったけど、たまに風に乗って男の酒気が漂ってくる。彼女の優しい髪の匂いと、男の酒臭さに包まれた日々がいつまでも続けばいいと思っていた。

しかし一年程たった頃「好きな人が出来た」と彼女に電話で告げられ、僕の恋は終わりを向かえた。ただ最後まで僕の気持ちが分からなかった彼女にとっては、何も始まっていなかったのかも知れない。

電話を切った僕は一人公園に向かった。公園に行けば彼女がベンチに座っていて、全てが元に戻るような気がしたから。公園に着くと、当たり前だがそこに彼女の姿はなく、ワンカップを持った男の姿もベンチに無かった。僕はいつも男の座っていたベンチに腰掛け、ぼんやりと映る向かいのベンチに、僕ら二人を思い浮かべた。

そして、気づいたんだ。

『あぁ、、あの男は未来の僕だ。』

この先夢に破れ、生きる事に疲弊し、熱量を失い、その事にすら慣れてしまった未来の僕は、タイムマシーンで現れては、このベンチに座り、ワンカップ片手に過去の僕を懐かしんでいたんだ。
そりゃこんな不甲斐ない僕を観ていたらブツブツ言いたくもなるだろう。
ほら早く告白しろ、逃げ出す度遠ざかる事に何故気づかない、こんなかけがえのない時間は二度と返ってこないんだ、きっとそんな所だろう。今日は気を使って来ていないのかな、それともこんな哀れな自分を見ていられなかっただけか。

そして今、僕はあの頃より少し大人になって満員電車に揺られている。
車窓からは、公園で遊ぶ子供達とそれをベンチで眺める男の姿が見えている。




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